哀歎品解説

哀歎品(あいたんぼん)四顛倒・常楽我浄

この品は純陀や諸比丘如来が般涅槃を哀歎することに対して、如来凡夫の四顛倒を説いて、無我有我を宣説する章です。

哀歎品本文 和漢(電子ブック)

本文は以下の「トロント大学図書館の電子図書」と「国会図書館ライブラリー」のリンクでご覧になれます。



哀歎品より(涅槃経解説・最後のみおしえ・伊藤真乗)

◎弟子たちへの遺言と説法
この品は純陀や諸比丘如来が般涅槃を哀歎することに対して、如来凡夫の四顛倒を説いて、無我有我を宣説する章です。
勝の三修を施す ─ 此の土の声聞衆に対す

1.佛涅槃し給わば 病者に薬なきが如し

●ブッダの遺言
(一)此れより此の土の声聞衆に対す
    ─┬─大衆の請─┬─請の縁                [3-1]
(二)正請の文
│    │      └─正しく請う─┬─請を哀しむ      [3-2]
│    │              ├─請を祈る       [3-3]
│    │              └─請を譏る       [3-4]
●完全寂滅と字
(三)如来の答え
│    ├─如来の答─┬─哀請に酬いる             [3-5]
│    │      ├─祈請に酬いる             [3-6]
│    │      └─機請に酬いる             [3-7]
(四)比丘の疑執を明かす文
│    ├─比丘は執を疑う                   [3-8]

2.眞実を徹見しないと酔人のごとく廻転して見ゆ

●三宝印についての弟子の理解
(五)執を破し疑を除くの文
│    └─仏は執を破り疑を除く─┬─讃 ず          [3-9]
│                 └─破 る─┬─其の偏理を破る[3-10]

3.常楽我浄の勝れた修法

●常楽我浄の意味
(六)偏行を破するの文
│                       ├─其の偏行を破る[3-11]
●諸法無我の真意
(七)如来正法を迦葉に付属し、無我有我を説き給う文
│                       └─其の偏教を破る[3-12]


釈尊の遺言の教説より (伊藤真乗)


               顛倒(てんどう)することなく精進を

 私ども仏徒が涅槃の教法に依って歩むところに常楽我浄の境涯が開かれていくと
宣説される中に、世尊は”顛倒”してはならないと強く戒めておられます。
 この顛倒とは正しい理に対する逆さまなことで、つまりすべて物ごとの真実の相を反対にはかり、それを逆に観ていく在り方を言います。ですから、常を無常と考え、楽を苦と思い、我を無我と見なし、浄を不浄と惑うことを、ことに四顛倒(してんどう)として、そこに陥ってはならないとご教示しておられます。
 世尊は沙羅林に集う涅槃聴衆の悲しむ姿を目のあたりご覧になり、未だ常楽我浄の法を会得しきれない様子に、かれら(実は私ども)が転想、迷いに陥りやすいことを察せられ、それを拭い去るため、あたかも酒に酔った者が動かぬものをぐるぐる回転していると錯覚するように人間は煩悩に覆われているから四顛倒という誤謬(あやまち)を生ずるのである---と警鐘を拍たれたのでありましょう。



【常楽我浄】大辞林より

じょう らくが じょう じやう -じやう [5] 【常楽我浄】
〘仏〙
涅槃(ねはん)の世界の四つの徳。常は恒常的であること,楽は静かな楽しみ,我は自在無碍,浄は浄(きよ)らか。涅槃の四徳。
四つのまちがった考え。四顚倒(してんどう)。無常・苦・無我・不浄であるこの世界を,誤まって常・楽・我・浄と思うこと。


複合見出し

品毎の複合見出しは、単体見出し哀歎品(四顛倒)を合成・複合化したもので、機関誌「歓喜世界」シリーズの「涅槃経解説・最後のみ教え【南本】・伊藤真乗」の見出しを軸にして構成します。

見出し構成

「最後のみ教え」を構成基幹として、
並びとして現代語訳(現代語完訳・大般涅槃経)に●印を、
昭和新纂(昭和新纂・国訳大蔵経)の注の(漢字番号)を、
新国訳(新国訳大蔵経・大般涅槃経)の[科段の行番号]を
それぞれ付記しています。



  • 最終更新:2014-10-12 16:50:09

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